正確な演奏と音楽の実体

 世に「正確な」演奏と言うが、正確さという場合、何に対して正確なのか、という点は、しばしば議論もされずに放置される。大抵は「機械のよう」といったニュアンスが込められているのだろうが、まあ乱暴なセンスである。こういう人は、人間の感性というものを知らない。いわゆるメトロノーム的な正確さというものは、演奏者本人によって、正しい音の位置はここしかありえない、と直感される音の位置とは、殆ど全く関係ない。人間の感性と正確さという概念とは、対概念ではない。感じられたものを誤りなく表現出来るのが、演奏における正確さである。何も難しいことではない。極端に知的な業務に専心している人ならともかく、何年も楽器演奏に身を置いてそのことが解らないとうのは、なんというか、ダメ感が溢れる。
演奏者によって作り出されるそうした拍の伸縮は、一般的には、正確さに付け加えられた「効果」であると認識されることが殆どなのだろう。これも、実に間抜けなものの見方である。本当は、そのように感じられたものこそが、演奏者本人にとっての音楽的実体なのであって、メトロノーム的な時間の方が、観念的な構築物、つまり幻である。さらに言えば、メトロノーム的時間の方こそが、自然な演奏に人為的な「効果」を与えるものだろう。
 「間抜け」と書いたが、こういうことが直感的にでも観念的にでも理解できない人というのは、本当に間抜けである。腹立たしいとか、許せないとか、愚かとか、そういう感じではないんだな。もう、実に間抜け。ただ単に間抜け。これ以外の形容詞が思いつかない。