ジョスカンに首ったけ。

注文。

Tallis Scholars Sing Josquin

Tallis Scholars Sing Josquin

 ジョスカン・デプレに聞き慣れてから、最近はもう、モーツァルトとか、さらにバッハですら意匠が過ぎるように感じられて、本を読みながら聞けなくなってしまった。
 結局、音楽というものに何を期待するのか、ということで、私の場合は「頭の中でごちゃごちゃになっている音楽的思考のモーメントを整流する」ということ。
 私の場合そもそも、多分平均よりもだいぶ音楽的思考が奔放でまとまりがなく、また、音楽的印象が焼き付いてなかなか頭から消えてくれない、ということがある。先日倉吉への車中で久々に快適にモーツァルトの弦楽五重奏を心地よく聞いていたが、そのときは良いものの後になって、頭にその印象がこびりついてなかなか消えてくれなくて、非常に難儀したのであった。
 その点はジョスカンでも一緒で、やっぱりしばらくその印象はずっと残っているが、何故大丈夫かというと、そもそも構成としてバロック〜古典派〜ロマン派的な対比の美など目指していなくて、短い時間的なスパンでの和声的整合性と、それらのユニットの時間的連続の無矛盾性に特化して洗練されていることが、やっぱり大きいのだろうか。
 「頭から音楽の印象が消えない=物理的に音楽を耳にしていない間も常にそれに付き合わされる」と言うことで、こういう場合バロック以降の長いスパンでの物語性というのは、中々しんどいもののようである…てのが個人的な実感なわけさ。
 ルネサンス音楽と聞き比べると、いくらバッハやモーツァルトの音楽の「純粋さ」云々など言われても、やっぱり彼らの音楽は、感情的なものを時間的に構造化しようとする高度な知的なコントロールが、そのまま現れてしまっている、というのがむしろ弱点なのかも、などと思ったりする。そういうものを、ジョスカンに嚆矢を見いだすルネサンス音楽の作曲家は、努めて避けていたのではないかと、私の少ない知識ながら感じてしまうのであった。