翻訳メモ001

いわゆる「自然な訳語」。
「日本語として存在するか」ということは、十分条件ではない。S兆史氏の理論は参考になるが、氏の訳文は「いわゆる自然」の域を出るところ少なくなしとしない。

それよりも「自分の口に合うか」、「話し手のキャラに一貫性があるか」、ここには必然的に「存在する」が含まれる。

ただし、ネイティブだとか何とか関係なく、文章を書くというのは選択的な言語使用であると言えるのだから、原文を書く人でも、「らしさ」がだせれば一人前の文章家である。問題は、「らしさ」を持たない書き手が書いた文章を「自然に」訳することが、本来的に可能かどうかということ。
ノンネイティブの書く英語論文などはその典型。グローバルドメインの言語の厄介なところである。

以上言い古されたことの再確認。

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さういへば言葉遣いには「いわゆる」というのがあるのであって、日本の文芸や特に邦訳などはその世界である。
いわば虚構の部類にはいるものの、侮れないのは、実際にそういう話し方をする、特に女性など、いるのである。

先日、人間の日常は大半が演技なのだから、あえて演技をするというのは演技の演技、メタ演技なのか、とかぼんやり考えていたところ、図書館でふと目にした福田恒存正字正仮名版の作品集の新しいのが出ていて、ほっとして手に取ったのである)で、「演劇はそのままの人間ではなく典型的なキャラクターを演じるのである」みたいな事が書いてあった。翻訳とキャラクターという連想で今思い出したのであった。

多分誰かが散々議論し尽くしてきたことなのだろうが、自分でちゃんと考えたことはないので、今後の課題としてメモ。

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不自然訳(口に合わない)、といえば、例えば最近読んでいるブルデューディスタンクシオン Ⅰ』で、「ますます〜する+〈名詞〉」という訳語がちらほら出てくるが、はて、「益々」と漢字で書けば書き言葉として不自然ではないのだが、わざわざひらがなで書かれると、実際に口頭で「ますます」とかいう人、いたっけな、と余計なことを考えてしまう。
漢字で書いてわかるものをわざわざ平仮名で書くというのは、視覚的に五月蝿いとき(逆にわざと漢字にするのもあり)と、口に出した音の響きを強調したいときなどであろう。「ますます」の場合、「益々」と略字が使えて視覚的にもさっぱりしているし、言葉の意味を考えてみても、漢字で書くデメリットは、あんまりない。
逆に平仮名の場合、字面どおり、素直に「masumasu」と、西日本式に「u」をちゃんと発音するのか、東日本式に「masmas」と省略するのか、またアクセントも関西〜中国ふうに二つ目の「ま」に置くのか、とか、実際に耳にしたことがないから、余計なことを考えて戸惑ってしまう。それとも、どこかの方言で実際に「ますます」ということがあるのだろうか。

田中克彦なんかが代表格だが、漢字に「権威」をみるひとというのがいるわけで、しかし本当のところ、政治的な文脈ではなく共同体的な権力、メンバーシップということで言えば、むしろ平仮名こそが排外的な言語使用をマークするのである。つまり、「(漢語も含めて)外来語」が平仮名で表記されるためには、十分に人口に膾炙して語源が意識されなくなるという禊ぎが必要なのである。

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方言にはある、というのはふつう考えてしまうより多くあるはずで、例えば「〜ので」というのは、鳥取の口語としては極めて不自然だが、以前TVで東北方言の中に非常にきれいに収まっているのを見かけたことがあって、なるほどと思ったことがあった。
標準語の語彙として定着したものでは、「づつ」か「ずつ」かというのがあり、小谷野敦氏が以前どこかで「私の地元の方言では「つつ」というから、本当は「づ」が正しい」というようなことを書いていた。鳥取であればそもそも口語で「一個づつ」とか言おうとすると物凄く舌足らずな感じになってしまうので、私なら「一個一個」と繰り返し強調で回避したいところである。ので、つまりこれも、特定の口語変種に根拠を持つ語彙の例として挙げられる。
ちなみにいわゆる四仮名、「ぢじづず」(順不同)は戦前生まれぐらいの四国方言では区別されていたらしいが、戦後の表記改定で消滅してしまったと、大野晋だったかだれかが対談で言っていた。「やさしい」戦後国語改革の欺瞞が分りやすく出た一例で、「現代発音」などというものに気を使ったふりをしながら、語彙の口語的根拠などろくに考えてなどいなかったことは明白であり、自分の親しんだ範囲の発音だけを科学的検討もなしに乱暴に適用しただけで、要するに民主化の偽名の下に一部の人間が標準語の私物化を目指しただけのことに過ぎない。

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元に戻って翻訳メモ続き。

「ますます〜する+〈名詞〉」の対案として

・「〈名詞〉がどんどん〈形容詞〉くなっている〈の(が、は、etc...)/ こと(から、で、etc...)〉」
(スタイルとして「どんどん」はNGかもしれない)
要点は
・increasingly adj tendenncy, などを「動き」として再分析
・論理的に妥当な接続詞(because, and, etc)の補充