本など

数学物語 (角川ソフィア文庫)

数学物語 (角川ソフィア文庫)

物語 数学の歴史―正しさへの挑戦 (中公新書)

物語 数学の歴史―正しさへの挑戦 (中公新書)

数学関連。
数学については、非時間的な構造的記述を目指す学問(と思っていた)だけに、その歴史性については、あまり気にしたことがなかった。(中学生に突っ込まれたときのために)ある程度読んどかないと、とか思ったのは、ここら辺で
読むと書く―井筒俊彦エッセイ集

読むと書く―井筒俊彦エッセイ集

心とことばの起源を探る (シリーズ 認知と文化 4)

心とことばの起源を探る (シリーズ 認知と文化 4)

文化による数学技術の発展の違いとか、イスラームにおける三角関数の発展史だとかについて、読んで。

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まぁ、11年と少し前のセンター試験で、200点満点中14点という素敵な自己採点結果をたたき出しながら、見事現役(補欠)合格という快挙を成し遂げた私のことなので、あまり無理はすまい。
特に数学は勉強してなかったからなー。一度、高3の数学の時間に、露骨に教師にバカ呼ばわりされたことがあったな。少しも褒められたいとか思ったこともない教師だったので、むしろすがすがしく感じたりしたものだが。
しかし思うのだが、大学生になって、特に田舎大学の教育系の学部に行ってたから尚更ってこともあるのだが、高校数学をある程度、曲がりなりにもこなせるような人間でも、相対論や量子論とか、ハイゼンベルグ不確定性原理とか、カオスとかフラクタルとか、そういう直感的にはむしろわかりやすい概念について、概論的な知識すら持っていないのが普通、という状況は、いかがなものか、とか思ったりする。
他に、高校も文系クラスだったけど、同級生がクォークのことを知らない、とか言ったときには、心底驚いたものであった。こちらは、『学研の科学』で小学校から知ってたから。ちなみに相対論とかフラクタルとか云々は、高校の図書室で、せっせと勉強する同級生らを尻目に、『ニュートン』とか佐藤文隆あたりをせっせと読んで学んだと思う。
そんな低度の知識で威張られても、とか思われるかも知れないが、なに、専門的に研究しているのでもない限り、どれだけ程度が高かろうと、一般向けにわかりやすく噛み砕いた以上の理解なんて、どっちにしたってできっこないのである。
このあたりの知識がない人間というのは、何が一番問題なのかと考えると、「徹底的に物事を考えていくと、現時点では観測も判断も不可能な、曖昧な世界、知性の限界というものが見えてくる」ということを知らず、「自分は解らないけど、どこかに明確な答えがあり、アタマのいい人はきっちりと答えを出すことができるはずだ」みたいに思い込み、「私は頭悪いから解りません。何が悪いの?頭がいいあんたがやれば?」みたいな態度に、最終的に至ってしまう、ということではなかろうか。
ある物事の処理に関して、せいぜい直感的に理解可能な考えを突き詰めることすらせずに、具体的な計算結果の違いでしかないものを、「価値観」だとか「感性」だとか「信念」だとかの問題として、貴方と私は考え方が違います、なんて適当に言われたりすると、腹が立つ低度ならまだいいとして、時には果てしない虚無感に襲われたりする。