モノ記 08 audio-technica ポータブルヘッドホン ATH-ES55

昨日届いて。

audio-technica ポータブルヘッドホン ATH-ES55 BK

audio-technica ポータブルヘッドホン ATH-ES55 BK

 なんか開封直後でもぎすぎすした感じはなかった。基本的なキャラは、やっぱりES3と一緒っぽい。ピアノの音や女性ボーカルなど、聞きやすい。プラス低音が自然に鳴る、て感じか。低音をことさら強調した感じはなく、すこしぼやけるが大体は締まった感じがあり、好ましい。


今のところ何が気に入っているかというと、この曲

フォーレ:レクイエム(再プレス)

フォーレ:レクイエム(再プレス)

フォーレ:レクイエム(オリジナル版)

フォーレ:レクイエム(オリジナル版)

フォーレ:レクイエム

フォーレ:レクイエム

の演奏を聞き比べているのが楽しい。もちろん、
 最近、ルネサンス期〜初期バロックのものに手を出し始めて感じているのは、ダウランドとかこの頃の作曲家は、「クライマックスを作らない」技術に非常に長けているのではないかということである。
 この感じというのが、何となくフォーレの音楽にもあるのかな、とか思い始め。もちろん、近代オーケストラの機能を最大限生かした強弱などははっきりとつけてあるのだけれども、しかし、オーケストレーションの中の最強音記号が、音楽的には別にクライマックスではない、といったような高等な技術(…私としてはさらに高尚な趣味とも言いたい)が発揮されている様に、感じたりするのである。
 見方を変えると、この強弱からのクライマックスの剥奪が何に支えられているのかというと、強弱すらも、その変化に伴う音色の変化の、付属物に過ぎない、ということなのではないかとか、考えてみる。強弱の違いは何よりもまず音色の違いなのであって、それ故、各楽器、各音域間の音量のバランスも、決定的に重要な要素になってくる、ということが起こらないか。
 強弱が、強弱以外の重要性の別の側面を与えられることで、逆に絶対値としての重要性を持つ、という、逆説じみた言い方をしてみる。


 しかしこのあたりの着想は今頃やっと意識することができはじめた程度なので、何か言うのはしばらく控えておこう。
 取り敢えず、このヘッドホンのバランスでフォーレを聴いていると、そういうことが思われた、ということ。音の広がりがないのはやっぱり少し聴き疲れするが、フラットな音の作りの事を考えながら、低音の評価ということに対する評価について、思いを巡らすのでありました。


 こういったことを楽しめるヘッドホンではある、なんていう雑感であった。