これを聴きながら。

十字軍の音楽

十字軍の音楽

  • アーティスト: マンロウ(デイヴィッド),クラーク(クリスティーナ),ボウマン(ジェイムズ),ブレット(チャールズ),ロジャース(ナイジェル),ショウ(ジェオフリー),クゥーシー,フェディット,ベチューヌ,獅子心王リチャード,ロンドン古楽コンソート
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2004/02/25
  • メディア: CD
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本日はオーケストラの練習で、チャイコ『くるみ割り人形』やドボ7など。
ロマン派を何時間かでも集中して取り組むと、やっぱりちょっと鬱気味になる。学生時代音楽棟のピアノ室をある程度自由に使えた頃は、そういうときは1人こもって「いかに小さい音を出すか」とか何とかやって、脳内の浄化をしてたものだが、近頃はそうも行かなくて結構困ってたが、最近中世音楽などを聴いてみたりしていて、これは同様の浄化効果があると気付いたのであった。
なんと言いますかね、クライマックスがない、というのがまず一番大事で、ほかにもピグミーの音楽なんか聴いてても、本来音楽にとってクライマックスというのは別段必要でもなんでもないのだというのは、とてもよく分かる。
クライマックスのない、ということで言うと、近代フランス音楽なんてのもそうなのだが、あの辺はその代わり非常に密度の高い音楽経験というか、意識の集中が必要というか、ドットが細かすぎて、結構疲労感というものがある。
同じ点でもうひとつ、中世音楽をいくらか聴いてみた耳でそのままモーツァルトを聴いてると、この人の書いたものも、案外クライマックスというものを拒否しているようなところがあるのが分かる。ただし彼の場合は、ただ淡々と流れていくと言うことよりも、逸話にもあるような作品の非時間性、構造性にその感覚の理由が求められる気がする。つまり、どの部分も等しい重要性を持っている、ということだ。モーツァルトのそういう側面を無視したような演奏というのは、そういえば私は結構キライである、アルパン・ベルクQとかね。


やっぱり楽器を触っていると、こういうことに意識が傾きがちになるのだが、そうでなくても最近は、いろいろな店内音楽のひどさというものが、以前にも増して感じられるようになってきているのであった。一体何の必要があって、飯を食いながら、激しいビートの利いたロックやらラップやらのお祭り音楽を聴いていなければならんのか。あんなものが四六時中、町中何処に行っても流れていれば、それは鬱も増えるというものだ。


その他いろいろ、現代の「感動した!」主義とでも言いたくなる傾向の根源って、やっぱりロマン派音楽、その前世紀西洋に花開いた理性主義に通底する知的興奮、さらに遡ってバッハやヘンデル、言葉と精神のピュリズムに不可逆的な影響を与えたルターの聖書飜訳、なんていう風にたどっていけるのかなぁ、とか思ったりして。
もちろん、プロテストされた側にそのような反動を引き起こす原因というものがあるわけだけども、芸術形式に対してまで拡張された反動としてロマン派的傾向があるならば、それはやはり補償としてのバイアスがかかっているものであって、現代においてはもうそろそろ反省があってもいいのではないか、とかなんとか考えたりするのである。
ただし、アンタイロマン派としての20世紀無調音楽というのは、アンチとしてのステータスを主張しているようで、感情的な表出の可能性を探究するように見せながら実は調性の拡大という知的な側面の発展に半分以上はこだわってきたロマン派音楽のなれの果てとしてのシェーンベルク的理念に、「新しもの好き」としてあらわれた18世紀的な(もしくは汎人類的な)知的興奮のミクスチャー…つまり、枝葉と根っこをくっつけたような世界からたいして離れるところがないという点で、やっぱりあまり面白いものではない。