時計。

ふと、「針じゃなくて文字盤の方が回る時計」ってのがあってもいいんじゃないか、と思って検索してみたら、似たようなことを考えた人も幾らかはいたらしい。
http://www.gizmodo.jp/2010/02/post_6771.html
http://jsdo.it/Ogoshi/4ATz
http://www.geocities.jp/kuromonokaden1/1_clock.htm
などなど。
 真ん中のやつ、気に入ったのでfirefoxプラグイン''Faviconize Tab''でファビコン化して、タブバーに常時一席を設けた。
 ただ、たいていはデザイン面での効果を狙ったもののようで、以下のような私の根本的発想とは、ちょっと違う気がする。


 自分の場合の発想は、針の方が動く普通の発想の時計を、「ニュートン的絶対時間の中を、絶えず前進し、いつも同じ場所に帰ってくる」という、いわば「主体的循環モデル」とすると、文字盤の方が回転する発想は、「自ら関与することが出来ない時間の中に立ち尽くし、次から次へと移り変わり、繰り返し現れる似たような風景だけが、時間の流れとその規則性を告げる」という、「受動的循環モデル」となる、といったようなもの。
 人間スケールと天体スケールの対比が上手く表象される、というのも後で気付いたこと。普通の一人の人間が徒歩でどれだけ歩き回ったところで、地球というサイズで見れば、殆ど点のような狭い範囲でしかない。天体スケールで見ると、人間の世界なんてのは、殆ど止まっているのも同じ。


 音楽経験における時間は、自分の中ではほぼ完全に後者の方に認識がシフトしている。そこでは、これまでに過ぎ去った景色だけが、今いる場所を自分に告げる。予め自分で作った時間の枠の中に、音楽を埋め込んでみる、というのではなしに。
 自分は過剰に(少なくとも質的に)音楽に入れ込んだ人間だから、時間の感じ方は、非近代的な受動的時間を生きている割合が、多くの人より多分多い。もちろん音楽に向かうときはそうである。
 再生音楽の時間軸に対して幾らかシビアであるのは、多分こういうところもあるのだろう。