最近親指シフトが。
年明けぐらいからかなぁ、親指シフトの配列が、ほとんど全く思い出せなくなった。
といっても、入力が出来なくなったのではなくて、より純粋に頭の中の音から指の動きが呼び出されるようになり、反対に、平面上の仮名の並びが、果たしてどんなだったかと、はときいんぐらいまでしかぱっと頭に浮かばないというような状態。今、ちょっと書いてみて、といわれても、ものすごく時間がかかってしまいそう、みたいな。
憶えてしばらくは、7割方ぐらいは頭の中に常に配列図のイメージがあるように感じていた気がするけど、その余分な視覚情報を、最近になってやっと「忘れることができた」ということらしく、入力しながら頭の中が少し軽くなったような気がしている。
これはまた、ローマ字入力でほぼ達成できていたレベルに、やっと「質的に」追いついてきた、ということでもあるのかなぁ、などと考えたりもする。入力速度、ということで言えば、一昨年の12月ぐらいに、練習に本一冊丸写ししてみたあとぐらいからは、多分殆ど全く伸びておらず、QWEロマかなと比べても、ちょっとはまし、程度だと思うし、正確さに関しても、ミスもだいぶ減ったとはいえ、とても自慢できるような状態ではない。が、そうした巧拙とは別の次元の深化みたいなものは実感として確かにあって、凡タイピストなりに、一つの動作・技術体系に通じていくことの楽しみも、確かに感じてはいるのである。
親指シフトに腰を入れて取り組み始めてからだいたい、一年と半年ぐらい、「真似をするのは月単位、身につけるのは年単位」という、楽器をやってて得た教訓が、こっちでもちょっと確認できるぐらいには経験を積んだのだな、とかいう、なにやら感慨めいたものに、少しだけ気分を良くしている昨今なのであった。
そんなことを考えながら、この本の一節をふと思い出したのであった。
―自動化は進むにしても、脳は、年をとると退化してしまうものですか。
- 作者: 酒井邦嘉
- 出版社/メーカー: 明治書院
- 発売日: 2009/11/01
- メディア: 単行本
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年を取れば、当然経験が増えますし、蓄積された知識が判断をより高度にします。忘れてしまうことも多くなるかもしれませんが、だんだん自動化されていくことを考えると、退化するというより、むしろ熟練の域に近づきます。伝統芸能など、かなり年齢を経て初めて大成するものが多くありますね。ある種の悟りというか、極みの境地に達するためには、やはり長い年月をかけて本当に必要なものを見極めることが大切です。若いときには、余分なものが余分だとわからないので、うまく捨てられないものです。脳自身はそうやって情報を整理するわけです。不要なものが捨てられるということは、退化どころか明らかに進歩です。
―よく神経細胞は年齢とともに減っていく一方だと言われますが、退化はしないというのは、それらのつながり方が大事なのですか。
そう、記憶は神経細胞自体というより、そのつながり方にあります。余分なつながりを捨てることによって、自動化がいっそう進むことが重要です。私の恩師の堀田凱樹先生は、むしろ捨てることこそが学習だと言っています。多くの人は、いろいろ付け加えていくことが学習だと思って、いろいろな知識を得ようとしますが、あるところまで行けば、捨てていくことが逆に大切になります。余分なものがなくなって、考えなくても自然に出来るようになったとすれば、それはまさに名人の域です。
だから、脳の細胞が減っても一向にかまわないのです。むしろその捨て方を知って極めていけます。伝統芸能などでは、そうやって余分な力が入らないようにして、本当に必要なものだけになったとき、完成された芸ができるわけです。それはもう、それ以外の何物でもない状態にまで極められています。無我の境地にまで達していて、何も考えなくてもスッと体が動くという感じでしょうね。
言語も同じです。英語がペラペラになると、考えずに英語が出てくるでしょう。英語で話しかけられたら、パッと返事ができて、知らず知らずのうちにもう英語しゃべっていたというのが一番良い状態。「ああ、英語でしゃべらないと」と考えているうちはまだまだですね。
(pp.35-37)