翻訳メモ002

新言語の語彙の定着に重要なのは、自分の言葉でその語彙の内容を把握すること。
辞書に載っている標準語ヴォキャブラリーが自分にとって十分親しいものであるなら良いが、そうでなければ新言語を遠ざけるだけの結果に終わりかねない。

辞書ヴォキャブラリーと自分との距離とは、標準語ドメインへの親しみの度合いのほかに、こないだ書いた、方言という観点から見た距離というのも無視できない重要さを持っている。

標準語との乖離の大きい方言の話者は、両者の間に翻訳を必要とするわけで、例えば英語から、なじみのない標準日本語を介して理解する場合、英英辞典のような、よくなじんだ英語なされた定義で理解するより、ひとつ手間が増えてしまう。そしてこれは、時に超えがたいひと手間であったりするはずである。

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「僕」の発音をbo'ku ではなくboku'とアクセントをつけて読むと、アクセント、イントネーションが「わし」と言う時と同じになることにに気づいた。また、「わたし」とも類維持している。

bo'kuアクセントはむしろ、「ぼかァ」的なタイプのヴァリエーション(?)に適しているのでは。さういへば、「ぼかァ」というひとはboku'とは決していわないような気がする。

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特に気を使うわけでもないのに、ふと旧仮名遣いでないとどうしてもしっくりこないときがあるわけで。
動詞の活用で「言へば」とやりたくなるのは、ie を母音連続、つまり後者の母音を特別に意味あるものとして扱うか、二重母音、つまり後者の母音に文法的な強調がなく、ただi音で始まりe音で終わるという変化の過程が主要なクオリティを成すとつの長母音として扱うかで、文法的に有意な違いが生まれるということと、この母音連続と二重母音の有意な違いを示す「はひふへほ」のひらがなの使用は、語中には h は生じないという日本語の原則からして、相補性の点で許容範囲のうちに収まり、また動詞活用を一貫性を以って表現できる、という合理性が、根底にあるのだろう。

「憩う」は、ikoo ではだめで ikou の発音しか許容されない。
「行こう」は、ikou はだめで ikoo しか許されない。