私的「わし」考

筆者が自分で使って、最も自然で無色透明な一人称が、「わし」である。
老人の言葉遣いとして類型化されている「わし・・・じゃ」というのは、別に老人の言葉遣いの実態を反映しているわけでははない。いや、当たり前のことではあるのだが、たまに自分で「わし」と使うと、驚くほどでもないが意外な顔をされて、めんどくさいことがある。

自分がもつ二番目に古い記憶が、
幼稚園で自分を指して「わし」と言うと、女性教員に「男の子は「僕」といいなさい」と言われた
というものである。筆者が「わし」と言っていたのは、父と兄が使っていたからという以外には理由は考えられず、教員の一言はまあ乱暴であるとは言えるのだが、しかしそのころは、父の赴任で6年間だけ松江に住んでいた頃で、両親とも鳥取人という家庭で行われていた言葉遣いが、その教員にはおかしく聞こえたのであろう。


「わし」「・・・じゃ」というのは、方言なのだと思っていたが、確かに方言であることはあるのだが、そういえば鳥取でずっと過ごして来て、「わし」という一人称を、自分の家庭以外であまり耳にしたことがないかもしれない。
そういえば、松江はともかく、鳥取に戻ってきたのが9歳3ヶ月のとき、その後通った小・中学校では、新興住宅地の生徒がほとんど、つまり「どこの馬の骨とも知れない」者が殆どだったはずで、一人称も「おれ」のアクセントが「お」についていたり、「れ」についたり、いろいろであった。ただ、それほど遠方から来た家庭というのは、そこまで多くあったのではなさそうで、色々と変異はあれど、概して「鳥取弁」のカテゴリーに収まるのは確かである。それでも「わし」というのは多分いなかったはずなのだが、自分ではどうだったのか、どういうわけかほとんど覚えておらず、「僕」といったり「俺」といったりする時の演じ分けの違和感というのを常に感じていた様にだけ、記憶している。(「わたし」は「うち」とともに完全な女言葉か、もしくは文章語であった。)
この辺りの団地や住宅地といっても、すべて、当時まだ30年と経過していない若いものであり、古くから住んできた家庭の子供というのは、圧倒的マイノリティであったはずである。つまり、本来その地域特有であった言葉遣いは、いかなる形でもドミナントではなく、否応なしに全員が詰め込まれる小学生たちの言葉遣いのオリエンテーションは、混沌としたものだったはずである。(大学で散々「地域」とか何とかいう話を聞かされても全然ぴんと来なかったのは、このような、文化的個性としての、いくぶん一枚岩の「地域」というものが感じ取れない世界に放り込まれたことが原因だったのかも知れない)

筆者の家(父方)はその中では古くからこの土地にあり、維新で落ちぶれた足軽が市内から流れてきて落ち着いた、ということなので、筆者の転校当時でも、100年以上はは住んでいたはずである。父方をそれ以前までたどって行けば、江戸時代、岡山藩から池田の殿サンと一緒に異動になったのが、鳥取に住み着いた始めだそうである。

筆者が「わし」と自称する直接のきっかけとなった父は昭和20年生まれだが、小〜中学校で経験している言語状況というのは、まったく異なるものだったろう。団地がなく世帯数も少なかったため、父の通った小学校は筆者の通った中学校の近く、父の通った中学校は私の通った高校の近く、と、ひとつづつ遠くなっている(高校は一緒)。現在のような微妙な言語的差異が多量に混在するでもなく、またテレビの影響なども殆どなかっただろう。そうした中で育った父の、私的な一人称は「わし」である。
(ただし、筆者自身は、父と同世代のこの辺りの男性と、あまり口を利いたことがないので、父が「わし」を使うのが、家庭だけの影響なのか、地域からの影響なのかは判然としない。でも確かユキちゃん(♂)もハルの親父さんも「わし」といっていたような・・・佐々木のおっさんも確か・・・。祖父も「わし」だったはずなのだが、なぜかはっきりとその声が思い出せない…(祖父は13年と半年ぐらい前に死去。筆者は当時中3)。)(この辺りが曖昧だが、調べることが出来るので、調査課題が見つかって、書いてみた甲斐があった)

                                                                        • -

ところで、「わし」を手持ちの辞典で調べてみると、代名詞の文法的説明のほかに、

1.『デジタル大辞泉』・・・近世では女性が親しい相手に対して用いたが、現代では男性が、同輩以下の相手に対して用いる。
2.『新潮国語辞典 現代語・古語 第二版』・・・近世には男性・女性ともに用いたが、現代は尊大感を伴う男性語。
3.『小学館 現代国語 例解辞典 第4版』・・・多く、尊大感を伴って目下のものに対して、年配の男性が用いる。「わしの話を聞きなさい」
4.同等以下の相手に対し、自分を指し示す語。「わしが相談に乗ろう」

などの用法説明がある。「」内は用例。『日国』は私蔵していないので調べてないが、3は一応その縮約版ということである。

さて。1、2にある近世の用法はいいとして、現代についてである。「尊大感を伴う男性語」等はなんとなく分るし、編者の印象でもあろうから別にいいのだが、「同等以下の相手に対し」等は、はじめて知った。はて、これは一体、現実の慣行について言っているのだろうか、それとも文芸作品その他への言及なのだろうか。前者のつもりであれば、「尊大になるための一人称」ではなくて、むしろ「同等以下の社会的立場のものに対してへりくだる必要が無くなった時に現れた、普段の一人称」という方が適切だから誤りであり、後者のつもりであれば、そのような注記が必要なのではないか。
標準語における方言語彙の representation の問題。

                                                                          • -

谷口ジロー『父の暦』では、戦後すぐの生まれの主人公は幼少の頃は「ぼく」で少年・学生時は「俺」、大人になると「ぼく」でモノローグは「私」。主人公の父およびその同世代男性はすべて「わし」。但し主人公の父は但馬の出身。

                                                                          • -

自分の中では「俺」「僕」「私」は、相手によって変わるという以外に、自分の中でのキャラクターの演じ分けでもある。「わし」を家庭の外であまり使って来なかった理由には、始めに書いた例のめんどくさいことがひとつ、これはキャラクターの使い分けで、もうひとつもっと重要なのが、「自分が表現されすぎてしまう」という気恥ずかしさというのがある。

                                                                        • -

ここで息切れ。まだ触れていないのが、
・筆者は松江にいた頃喋っていた松江弁(?)を、ほぼ完全に、家庭以外で使われていた一人称を完全に、忘れているが、そのために却って、引越し前後で継続する家庭というドメインで使われていた「わし」だけが淘汰され、むしろ強化された形で生き残った。という仮説。
・「わし・・・じゃ」の喋り方の類型に影響されて、若い人も「わし」と言っていた鳥取弁の現実が、ある時期、この類型に当てはまるように逆に修正されてしまった。という仮説。
である。やはりこの類型について知ることは重要なことであるようである。

                                                                          • -

以上、思いついてしまって仕方なしに書いたが、これ以上展開するかは不明。日付がなぜか9日になってしまって動かないが、投稿時間は10日。