読書メモ 中村明一『「密息」で身体が変わる』

甲野善紀氏のドキュメンタリーDVDで以前に見て、少し気になっていた人の著書で、大学図書館に並んでいたのを見つけて、借りて読んだ。
著者は尺八奏者。呼吸法を探求していて、バークリー音大などをへて、本書タイトルの「密息」にたどり着いたという。
密息とは、骨盤を後傾させて下腹部をふくらませ、腹の形を腹式呼吸のように変化させず、息をすう時もはく時も下腹を突き出したままの形に保つ、という呼吸法のこと。この場合呼吸運動は、横隔膜のみによって一元的に制御される。こうすることで、胸式や複式呼吸では得られない静止感が得られ、演奏にも強く反映する、とのこと。和服(帯を締める服装一般)を着る場合、着崩れないように常に下腹部を少し突き出しておく必要があり、かつての日本人はおそらく、誰でもこのような呼吸法をしていた、という風に著者は推測している。
中盤からはこれを応用した日本文化論みたいになって、歌舞伎や能、日本画や書道などまったく通じていないわたくしは、やはり途中で眠くなることしばしば。「日本人/西洋人」というややステレオタイプな分類に少し乱暴さを覚えつつ(このあたりが新潮社から出ている理由なんだろうか)、「密息を失ったが、しかし西洋式の複式呼吸も身に付かず、胸式の浅い呼吸しか出来ない日本人」というのは、これもよく耳にする感じだが、まあ当たっているだろう。日本の特にアマチュアの管楽器奏者(に限ったことではないが)で、「い〜ち、に〜い、さ〜ん、ハイッ」と肩で息をしてテンポをとる間抜けな人はしょっちゅう見かけるし、そういう人は名演奏家の名演奏を聞いても殆ど改善が見られないという気がする。
中盤の文化論で面白かったのは、意識の「フォーカスイン/アウト」、「主構造/柔構造」などの概念を用いた観察。密息により意識が静かになると、対象への焦点の合わせ方が、かなり自由になるという。服装や絵画などで、細部を眺めてもいいし、全体を俯瞰してもいい、日本にはそういう感じ方を反映した文化が、あちこち見られるという。そうした感じから生まれて来るのが、主構造より従構造を重視する、という文化で、わたしの知っている範囲では、手塚治虫の漫画に出てくるヒョウタンツギや、談志師匠の落語などが例示されている。従構造重視の極端なものとして西洋音楽から生まれたのが、ケージの「4分33秒」。
主構造と従構造ということで思い出したのが坂本龍一。以前インタビューで、「オペラとかミュージカルが嫌いなのは、結局、始まりがあって終わりがあってという風な線的な物語だから」という趣旨のことをいっていて、インタビュアーは浅田彰だった。まあいかにもという感じで。

終盤では倍音をテーマにしており、著者の体験なども盛り込んだ具体的な筆致に戻って、だいぶ読みやすい。主構造と従構造の対立を音色にあてはめると、基音と整数次倍音が主、非整数次倍音が従、ということで、尺八という楽器は非整数次倍音の機能が世界一発達した管楽器、ということらしい。(この場合の「音色」は timber が適切だろう。非整数次倍音はおそらくinharmonicity)。

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ところで、この「密息」、甲野氏が『表の体育・裏の体育』で紹介している肥田春道の肥田式強健術に、同様の呼吸法がある。
甲野氏は呼吸について、呼吸法を教えることは、一面どうしても洗脳的な側面が出てくるから自分は教えない、と著作に書いていた。出版物で呼吸を教えまくっているのが斉藤孝という人だが、私は甲野氏の感覚に共感するところが多いので、斉藤氏の著作は書店で少し拾い読みしたぐらいだからあまり大きな声では言えないのだが、少し方法的に提示しすぎるきらいがあるように感じられて、あまり好きになれない。方法的といったのは、やり方を客観的に記述してはいるものの、実践している人がどういう感覚を備えるに至ったのか、どうも伝わるところが少ない感がある。
まあ私に教養が足りないだけかもしれませんがね。それにしても氏の顔を見て、私に全然憧れるところがない。いや、憧れる人なんてそもそもそんないないですけど。