手柄

徳の貯金、ということにも関わるが、手柄、というのは、やはり忘れ去らねばならないものだろう。
しかし、それによって、「どうせ忘れ去られるから」という理由によって、手柄が手柄でなくなる、ということにはならない。
キュリー夫人が、ノーベル賞のメダルを子供のおもちゃにした、というエピソードで、ここに「行為の純粋さ」という美徳をみることもできるが、キュリー自身が、その栄誉を、軽く見ていた、という証拠にはならない。おそらくは、その栄誉を十分に理解しながら、それをすでに終わったこととして、現在に励む、その放棄の素早さこそが、人格的な偉大さに関しては、よほど大きなことである。
こういうことを思うのは、以前に読んだヒクソン・グレイシーのインタビューの内容にも影響されてのことかもしれない。
たしか、「私にとって、勝利の瞬間は、とても短い」といった様なことで、つまり、勝利は勝利でありながら、すぐにその達成を過去のこととして見限り、たちまちのうちに、再び現在に帰ってくるのである。
手柄に追いすがる者は、過去に生きている。
網膜にこびりついた残像に心を奪われて、今目の前にあるものが、見えていない。
それはやっぱり、良くない。