なんとなく

大人というのは、人間存在の一つの「在り方」ではなくて、ただの「役回り」。共同体的なひとつの発明物である。
だから、子供でも器量さえあれば、できるもの。
また、人格の成熟度と、大人を演じることとは、また別のこと。
未成熟な人格で、過剰に大人を演じさせられると、私のようなアンバランスな人間、もっとひどければ「コドモ大人」みたいな、役回りと在り方の分別が付かず、大人の役回りをしさえすれば、人格的に成熟していると勘違いするような人間になってしまう。
では、人格の成熟とは、なんだろう。
私の今のところの考えは、あらゆる物事に対して、等しい距離を保つ冷静さを、積極的能力として保持していることである。

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「徳の貯金」とでも言いたくなるような道徳観みたいなものが、どうも日本にはあるらしい。てか他の国のことは知らないから、日本に、と言い切ってしまうのは、良くないか。
要するに、何か社会的・共同体的な貢献が過去にあれば、その徳の貯金があるうちは、いかに現在の人格がろくでもなかろうと、許されるべきである、とするような道徳観のことだ。
また、自分もその道徳観の恩恵に預かりたいから、他人にそれを許すし、自分もせっせと徳を積もうとする。
井上ひさしが、あれだけろくでもない人間であることが世に知られても、さも偉人ででもあるかのように、平気で追悼特集とか行われるのは、そういうことだろう。
だけどもう、私は、このゲームは、降りることにする。私の親たちの姿が、あまりにも哀れで醜いと思えるようになったこともあるし、第一、自分自身が、知らず知らずそのシステムに依存して、期待して生きていたことに気づいてしまい、激しい嫌悪を催したからである。
嫌悪するから放棄する、それだけの理由なら、浅はかに思えるかもしれないが、それだけではない。この「徳の貯金」のシステムが、人間の幸福になんら貢献することがないと、はっきりと断言できる考えに至ったからである。
徳の貯金を認めてしまえば、それが報酬になる。貢献が大きければ大きいほど、その貯金が大きくなるなら、倫理的なるものを将来において放棄するために、より大きな貢献をする、という行動が成り立つ。
実際、世間に行われているいわゆる道徳など、その程度のものでしかない。エコノミック・アニマルなのは、銭勘定においてだけではない。道徳的心性においてすら、そうなのだ。
しかし、そのようにシステム化された徳の貯金のシステムに、個人の自由だとか、尊厳だとか、入り込む余地が、あるだろうか。個人の幸福追求が、貯めた徳の浪費でしかないなど、そんな馬鹿らしいことがあるのか。
そして、徳の貯金を使い果たしたとみるや、その相手に対し、掌を返したように、冷徹に、底無しの軽蔑のまなざしを向けるのである。
こんなものは、はじめから認めないのがよろしい。
いくら過去に手柄があろうと、現時点の人格的評価には、何の関係もない。クズはクズだ。そうあることを、現在において常に拒否しようとする、その積極的姿勢以外に、何一つ尊きものを認めるべきではない。

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大概の人が勘違いしていると思うが、理想というのは、到達するために存在するのではない。
理想とは、望ましくない方向へ進まないための、方向指示機で在りさえすれば、それで十分である。
ただし、方向というものは、運動おいてしか定義できないものであるから、方向を維持することは、常にそこに向かって進んでいく、ということと同義である。
無限遠の彼方にあって、届くかどうかは、関係がない。到達できないということは、目指さないことの理由にはならない。