ゼニコ。

 金とは何かというと、まず第一に、その象徴的価値云々にかかわらず、財とサービスを合法的に入手する権利を与える、法的制度(約束事)である。
 マモニストは、金銭を象徴的な支配力とみなしたり、生き物としての自己の能力とみたり、最近では社会的信頼と同一視したがる珍種も表れているが、いずれにしても間抜けな話である。
 法的制度であるということが余り取り沙汰されないものとして、ほかにたとえば公用語の問題がある。普及度とか学習コストが云々とか言う前に、また象徴的価値を云々する前に公用語とは何よりもまず、発言の法的有効性を規定する制度である、ということをよく考えなければならない。


 権利の議論での一つのポイントは、たとえば「権利」を認める、といった場合、権利の保有の方を保証すべきなのか、行使の方を保証すべきなのか、入れ物ばかりあっても中身がなければ、それは保証といえるのか、ということである。権利が保証されているということは、ある行為を行った際に、そこに法的正当性を認める、ということの保証なのか。権利が認められない、ということは、行使に正当性が付与されない、ということ。とすると、行使することの実力をもてない権利を保有する、ということは、論理的に可能なのか。行われたことについてはその正当性を議論できるが、行われなかったことに正当性を云々する意味があるのか。フィジカルに実行することは出来るが、権利としての正当性を持っていないような状態。フィジカルに実行する能力はないけれども、入れ物としての権利だけを与えられている状態。「これこれこうすることは正当である」という観念としての権利。正当であることを実行できるフィジカルな能力。その位相の違い。

 なんか自分の頭にいろいろ浮かんだもののメモ。…ていってもそういえば19、20の頃には権利については殆ど同じようなこと思ってたなぁ。ぜんぜん進歩しねぇでやんの。
 こういう議論は哲学とかで多分とっくにされているんだろうけど、抽象的な知識というのは自分で抽象する過程を経てそこに至らなければ、殆ど何の役にも立たない、と思うと、とても読む気になどならない。

the right to sth
what is right things to do
日本語で「権利」と言っちゃうと、この辺のニュアンスがなくて、いかんわね。