吉村先生のこと

6月17日

思い出して随分久しぶりに指導教官のホームページを見に行ったら、二年ほど前に亡くなられていたことを知り衝撃を受ける……
posted at 00:02:31
ご遺族はまだ鳥取におられるのだろうか、弔いに訪ねなければ……


“吉村伸夫のホームページ(生還と再出発)” http://htn.to/TtpAd6u


この時流れてきた写真は少し古いものだったのか。 https://twitter.com/altocicada/staus/563248798726496256
posted at 00:13:42
毎日腕立て伏せをしてるのを100まで続けるなんて仰ったりしてバイタリティの塊のような方だったので何だか信じられない。


“BENDA - Grave - Viola de Arco (Bashmet e os Solistas de Moscou) - YouTubehttp://htn.to/omMUwq

シャワーしながらあれこれ思い巡らしてたら、吉村先生はバシュメットブラームスビオラソナタが好きとおっしゃってたのを思い出し、それから直ぐにこれが思い浮かんだのだった。本当は自分で弾けたらいいのだけども……追悼に変えて。御冥福をお祈りいたします。



6月18日

先生の闘病記の続きに戻ろう
posted at 01:37:13

"S医師にも言ったが、僕の実感として「幸運は負い目」であり、その食い逃げは許されない。負い目をどう返すか、これからずっと考えることになるだろう。" / “闘病日誌から(第一部・第二部) - 吉村伸夫のホームページ(生還と再出発)” http://htn.to/c6gMAF

"だが、まったく同じ理屈の裏返しで、悪運は「僕の神」の負い目となる。心するがいい。僕はあなたに食い逃げを許さない。最後にあなたに感謝できる、まさにそのためにも。"



"だがホモ族…は、そうした言語とは根本的に異なる、環境とそこに埋め込まれてある自分を自らに説明する(この衝動を human ethology では、explanatory drive と概念する)システムとしての言語を、手に入れた。
http://nobuoyoshimura.com/diary.html
posted at 11:57:51

これはそれ自体が意識対象であり、原理的に意識的あるいは意図的操作の余地が本質に組み込まれている。 つまり、嘘・虚偽がかならず生じる。が、いっぽうこれを野放しにすれば、社会は崩壊する。野放しにならない仕組みについての仮説を構築する必要があるわけだ。
僕はS医師に、自分が子供時代からどうしても約束を破れないことを語ったが、そのときふと気づいて、「魔物もそうですね」と言い加えた。
「かれらは原型的人間です。現実の人間はずるいので、魔物や神をだましますが、そういう話は世界中のあらゆる文化で語られてきました」という意味のことも、言った。「僕はきっと、原型的人間の類でしょうね」、とも。"

“闘病日誌から(第一部・第二部) - 吉村伸夫のホームページ(生還と再出発)” http://htn.to/c6gMAF

先生の闘病記の残りを一気に読んだ。
posted at 14:29:10


”20140121(09:41)
昨夜考えたこと。きちんと言葉にするのはなかなか難しいが、だからこそ、できるうちに試みておかなければ。

”バッハを聴いていて、たしかにこれは the great chain of being の世界だと、あらためて思った。対位法は基本的にその表現であって、旋律のすべてが等価なのだ。宇宙秩序にすべてが確固とした位置を占め、それを維持することが無前提に善となる。。

”上下秩序だが、秩序の構成要素としては、すべてが存在論的に等価だ。だから、本質的にー存在論的に特別なー主人公は存在しない。テレマンになると、市民たちの世界であって、そのいわゆる公共圏(たとえば、コーヒーハウスや市民サロン)の音楽なのだ。

"『ターフェルムジーク』もその空間の音楽という意味のはずで、「食卓」だの「階梯」だのは、無理解も甚だしい。ともあれ、この空間にも特別な主人公つまり英雄は存在しないが、その原理はまったく異なる。

"誰もがその場の主役を(過度に突出しないという条件で)務めることができ、また誰もにそれが期待される。そこではまさに、市民的な機知と穏健な自己主張が求められるのだ。彼がウィーンではなく北ドイツの都市で活躍したことの意義が、そこに見えるだろう。

"旋律も市民誰かの機嫌や気分(それは深刻であってはならない)をその持続の限りで表現し、和音はそれに陰影を添えるように働いている。もはや対位法で表現しきれる世界では、本質的になくなっている。

"だが、成熟した個人が内に抱く感情や情趣がなにより重要で説得力のある表現対象として、自明性をもつわけではない。そのことは、たとえば一足飛びにブラームスを聴けば、直観されるだろう。

"ふと溢れだす想いや情念や感情を旋律が奏で、その間にも別の思念や想いや感情がつぎつぎと兆してその主旋律に絡み重なって、ときとしていわば陥入する。これらが重なり絡まりほどけつつ、淀んだり流れたり小さな渦を作り出しながら、分厚く複雑な音の流れが形成されてゆく。

"そしてふと、まるで奇跡のようにすべてがそろって(リズムの結節など。ブラームスのリズムの複雑さはどうだ)、小カタルシスを作り出す。と思うとまた同様のプロセスが始まる。

"ときとしてこうした小プロセスが単位となって壮大な変奏曲の構造を形成するときには、たとえ小品でも、あたかも交響曲のごとき世界がたち現れる。

"若きグールドは、あの「第五シンフォニーのテーマ」と呼ばれるものを組み込んだ間奏曲に、まさにそれを見、演奏に実現してみせたのだ。彼以外にああいう演奏をした例を、僕は知らない。

"ハイドンモーツァルト、ベートーベンの音楽は、それぞれこのような発達史にうまく整合的に位置づけることができる。個人・私人の心や内面が、表現すべき対象として正当であることが自明性を獲得してくるプロセスがそこには見て取れるのだ。

"ハイドンが長いキャリアを通じて書き続けたピアノソナタ弦楽四重奏交響曲は、その成熟が上記の変化にそのまま照応しているといえるだろう。

"それがハプスブルグ家のウィーンで(ようするにハプスブルグ王家の庇護の元での文化的成熟の中で)進行したといいうことーそのことの意味を、それを考えることができる僕こそは、しっかりと考えなくてはならない。

"「市民」は、北ドイツの自由商業都市だけに現れたのではない。イングランドにもスコットランドにも、いかにもそれらしい市民社会は成立していた。それらがどういう音楽を求めていたか。あるいは、どういう音楽をしか、求めなかったか(パーセル以降のイングランドが僕の頭にはある)。

"いま、「耕される自分」も深く考えるべき問題として、見えている。この先、忘れまい。"






6月18日
月が出てゐる
posted at 21:43:03
今朝は肌寒くて長袖着て出たくらいだったが明日は暑くなるらしい


昨晩湖山の本屋に行ったついでに先生宅の辺りの位置関係を確認しにふらっと車で流したりした。

一度だけゼミの人達で夕食頂きに訪ねた時のことを思い出したりしてると、ふと頭が当時に戻ったような気がしたり。

昔に戻った頭であちこち眺めてると、大学出てからも何やら必死で経験の上書きをしようとしてきたようなところがあったのかも、とかぐるぐる考えたり。

暗い時間だしうろ覚えだしで表札など確認出来ず、まだご遺族の方が住まわれているかどうか不明なので弔問するならもう一人縁のあった学科のY原先生をはじめに訪ねてお話でも伺った方がいいかな。とか想い。つつ、

当時のことはそのまま頭のなかにしまっておく方がいいのかもしれないなんてことも思ったり思わなかったり。

御逝去を二年も知らずにいた身で、今更焦って行ってどうこういうものでもなし、先生のHPの読み残しやら一通り目を通したり当時のものを漁ったりしてみてからでも遅いということもなかろうて。


卒論も出して後は卒業を待つだけというとき、単位がぎりぎり足りないと教務のお兄さんに電話をもらい、再履修の登録だけしてレポート未提出だったY原先生の講義にレポートで単位もらえるよう頭を下げに行くとき、休みにもかかわらず大学まで来ていただいたりなんてこともあった。
卒論指導の合間の雑談のなかで、先生が一時期サラリーマンをされてたとき、わざとやったとしか思えないような間違いを何度か無意識にやってしまったことがあり、君も似たようなところがあるから心配だなんて冗談めかして言われたことがあった。
結局卒業単位の数え間違えなんてポカをやって、一緒にY原先生のところまで行く途中、先生の言ったとおりになりました、というと、ほらな、とでも言うように悪戯っぽく微笑されたりしたのが印象に残っている。