対談

ひろゆきvs勝間、ていうのが話題になっていたようで、ちょっと見てみたが、1本目の半分も見ないで、これはひどいと思って見るのやめた。
同情したくなるのは、まぁ勝間さんの方で、いかにも人間らしいのだが、それで議論しても、自分自身にすら関心を持たない悪魔の冷静さには、勝てんわな、とか思い。
悪魔というのは、ちょうど『般若心経は~』でスマナサーラさんが言っていたが、経典に悪魔が出てくるあたり、超自然的なものを否定する原始佛教としては、どういう説明をするの、ということで、要するにそれは、修行者の足どりを挫く様な問いを、一つの人格的存在の形式を借りて表現している、という。具体的に誰が言った、ということは問題ではなく、その問いの抽象性・普遍性を、悪魔という非現実の存在に仮託して表現している、という。
で、立場が「誰々の」という具体性を欠いていて抽象的であり、論理的に導けるものならば何一つ排除しないという、自分自身から一歩退いていることの強みといったものがこの対論相手にはあり、それだけならば、通常の議論の構え方としては、むしろ正しい。ここでわざわざこの対論相手を「悪魔」と呼びたくなるのは、そういう冷静さというのを、うまく相手を混乱させて、自ら崩れていくように仕向けるために使うのが、多分天才的に巧いんだろうな、という感じがする、ということで。
動画中の議論の展開としては、プロバイダーに確認するコスト云々というところで、それぞれが主張する根拠というのを、具に検討しなければ話が進まない局面に、すでになっているのだが、そこで勝間さんが「なにいってんの?コイツ」てところで固まってしまい、そうして固まったところを上手く見つけて、この対論相手は、そこで自分の論拠を具体的に説明しようとするのではなくて、「はいですかいいえですか、はいどうぞ」という言い方に典型的な具合で、相手の混乱を誘い、自分はまんまと説明の義務を逃げおおせてしまっている。自分が勝つことより相手を感情的に崩壊させる、そのように自分のデタッチメントを活用するところが、悪魔的というふうに感じられるのである。
勝とう勝とうと躍起になる勝間さん、勝つことは眼中になく、相手がこけてくれさえすれば自分の知的な様子をアピールすることが出来て商売が完了する対論相手、もはや第三者に有益な建設的な議論が望めるはずもなく、後はただスキャンダル好きなものが喜ぶ程度の罵り合いがつづくばかりだろう、ということで、時間の無駄、という冷静な判断は半ばほど、それよりもこういうものに触れて心がすさみ始めたので、さっさと見るのをやめたのであった。


ここまで、対論相手の名前を、導入をのぞき一度も書いてこなかったのは、はじめは特に意図していたわけではなく、何となくそのように抽象的な非個人として扱うのが感覚的にしっくりきて、途中でそのことに気づいたので、最後までそれでいってみた、という程度のこと。
まあ、2ちゃんと署名記事のコントラストみたいなものが、象徴的に実にうまく表現された映像ではあった。

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(追記)
この対論相手、思い出してみると、戦略的にやってるのかどうかは知らないが、「自分を馬鹿にさせる」ということで相手の調子を乱す、ということをしているような気がする。
多分どこかで、このやり方の味をしめたのだろうな。何となくこの人の思想背景が伺われるようである。
(追記2)
この動画についての世評を眺めてると、この両者のちぐはぐ具合について、「プロレスvs総合格闘技」みたいな見方をしてるのが圧倒的なんだけど、どっちかというと、「プロレスvs相撲」という方が、当たっている気がする。