dyadic と triadic

いま読んでるTomasello に出てきた単語で、dyadic ちうのは二者間のコミュニケーションを、triadic というのは第三者を参照しながら行われるコミュニケーションのことを、それぞれさして言う。
いちいちここで原語を書いたのは、triad、つまり西洋和声の3和音との連想をした、ということについてメモするため。
自分と、自分が関与しようとする相手との直接的なコミュニケーションが、diadic、第三者への関心を、相手と共有しようとするのが、triadic。類人猿とホモ・サピエンスとを明確に区別する認知機能的特徴が、この点。相手を、自分と同じ、意図を持った存在として認識する、という心理機能が、これを可能にしている。
ということは、こういういわば共感能力というのを欠く人というのは、お猿さん程度のものだと思っとけばいいのだ・・・・・・て、それはちょっと極端か。
また、佛教における、眼耳鼻舌身意の「意」は、多分このtriadicな intention reading の機能のこととみて、よさそうである。要するにこれは、感覚-運動システムにおける知覚入力を、視・聴・嗅・味・触の五感だけではなくて、知的な反省による知も、知覚のうちに数えてしまおう、ということである。

卒論書いてたころ、政治哲学Political Philosophy の分野にチャールズ・テイラーという論者がいて、「間主観性 intersubjectivity 」というのを提唱していたのに、当時少し触れる機会があったが、いまTomaselloを読みながら、そのことを思い出す。
当時、この間主観性というのが、人間性の根本的な特徴と言いうるならば、音楽の流れと完全に精神が一体化してしまうような経験というのは、非人情の世界なのかな、みたいなことを、サークルの雑記帳に書いたことがあった。
ここで想定している音楽作品は、モーツァルトの弦楽五重奏曲第3番ハ長調、第一楽章のことで、特にその展開部の終わり、再現部に戻る前の音楽の流れのことで、ここを聴いていると、音の流れと精神の形状が完全に一致しているように感じられて、当時好んで聴いていた。
その世界というのは、完全に「自分」という意識がなく、それゆえ「対象」に向かい合うということもあるはずがなく、当然、第3者など存在しない。
このような、自もなく他もない様な精神状態というのは、初期佛教で説かれる涅槃寂静の心理状態とは、別のものなのだろうか。同じものだとすれば、そのような心理状態に、音楽といった外的環境のaideなしに、vipassanaの自己観察のみを頼りにして至ろうとする、そのような試みが、初期佛教の目指すものなのだろうか。

どこかで、パウルヒンデミット著『音楽家の基礎訓練』を取り上げていたのを読んで気になっていたので、今日、大学図書館に行ってちらちらと中身を確認。序文に、このようにある

学生にとっての活動は、教師にとっても同じことである。我々の出発点は、教師へのこの注意なのである。書いたり、歌ったり、あるいはひいたりすることによって示すことなしには、なにも教えてはいけない。各練習問題を、指示された実習方法とは反対のものによっても行え。学生は次のことに注意せよ。自分でやってみて、実証し、理解するのでなければ、どの説明もうのみにしてはいけない。どの練習問題も、その理論的目的を完全に理解してからでなくては、書いたり、歌ったり、ひいたりしてはならない。

これを読むと、やっぱり、初期佛教に示される仏陀の姿勢と、そっくりである。

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興味にしたがって本を読みつないでいくと、時折こんなふうに、自分の経験がいろいろとつながることがある。
それが楽しくて、という期待も、やはり、読書という行為の中にある。