分かち書きに関するメモ。

 一部の仮名信者なんかが熱心に唱導している分かち書き。小学生用のテキストなんかでも使われている。
 しかしこれ、本当に分かり易いのかな、と、最近感じるようになった。
 というのは、以前から少し感じてはいたが、英文を頭の中で音にするとき、語の単位で(句の単位ではなく)均等に入るスペースが、却ってじゃまになることが多く、最近ではそれがさらに強く感じられるようになってきた。実際にはまず分けて発音しないようなフレーズが、語の単位での区切りによって、却って認識しづらくなってしまっているのではないか、てこと。
 例えばネイティブの英語環境に育つ場合、それらを文字として認識するよりも前に、まずひとかたまりの音として認識している、というのが殆どだろう。


 トマセロらのusage based theory では、言語習得の段階発展は、全体で一つの意味を持つholophraseからまず認識していき、そこからsalientな要素を頼りに区切りを見つけていくことで、還元的に語を認識していく、とする。語を組み合わせて句を作るのではなく、句を分解することによって語を見つける、と。(トマセロの本では、この議論が非常に説得的に展開されている)
 で、問題は、その様に語を還元的に認識した後に、句の認識が「語の組み合わせ」として行われるか、といえば、日常経験的にはそれはないと感じられるわけで*1。脳内で聴覚印象の連鎖をバッファしつつ、語レベルでの認識を保留して、句(もしくは節)の段階でのつじつまが合った時に初めて、語の具体的意味が成立する。こういう意味では、言語獲得段階におけるholophraseでの認識単位というのは、獲得後についても何らかの形で、言語認知に強く関係していると思われる。
 大人になってから、分かち書きされた日本語文に初めて接したときの(というよりはそのまま消えることがない)違和感には、ただ「慣れ」の問題とは違う、このような本質的な不自然さの感じが根本にある。


 話が広がったが、取り敢えず、英文を読むとき、現状で私が一番読みやすいのは、新聞など、辛うじて語の区切りが分かる程度のスペースの使い方である。上記から察せられる様に、句の単位での分かち書きがあるともっと分かり易いのかどうか、実例が無いので分からない。
 理屈はどうあれ、aの両側に、文字と等分のスペースがあるものは、やっぱり少し読みにくい、というのが、偽らざる実感である…が、もしかしたらそれは、自分の読解力の未熟の証拠でもあるかもしれない。

*1:この点、ローマ字入力におけるローマ字分解と少し関連がありそう。