メモ。Whole to Part

Constructing a Language: A Usage-Based Theory of Language Acquisitionasin:0674017641
3章で、単語の学習は、単純なレーベルづけではなくて、文全体に込められたintentionをまず読み取り、それをセグメント化したりしながら、もっとも認知的・環境条件情報的・頻度的に耳につきやすいものから学習していく、という whole to part の特徴を強くもつということで、これは、中高生の英語の得手不得手を見ていると、非常に納得いくものである。
中高段階での英語力(というか成績というか)は、英語の音声情報にいかに多く触れるか、ということで極端に変わってくるが、それは、量そのものというより、量が増えることで、whole to part のアプローチを実践する機会が、それに伴って増える、ということではないか。
また、同じだけの音声情報に触れていても、その意図を読み取ろうとする姿勢があるか否かでも、結果には差が付くように思う。
中高の現行のカリキュラムでは、part to whole のアプローチが圧倒的なのは明らかである。また、リスニングだとか、耳で覚える教育だとか、工夫するようになってはいるが、結局この part to whole のアプローチを脱するほどのことは、特に学校ではやっていない。
自分が今やろうとしている指導の仕方は、最近では特にこの whole を単位とした意図を、そのまま認識させることを念頭に置いているが、こうしてみると、いろいろなことが見えてくる。例えばある生徒は、文法項目に対する理解がおざなりに見えて、そこにこの全体を見ることのアプローチで、セグメント化とそれに基づく語順規則を教えると、それまで悩んでいたものがスッと出来てしまったりする。
また、別の生徒では、レーベル的な意味での語彙において優れた傾向を示し、語数の少ない簡単な例文による文法項目の理解も優れていても、それを少し語数を増やして展開すると、たちまち語順の判断が付かなくなる、ということがある。それで音読をさせると、やはり、単語を切れ切れに読む癖があり、prosodicな形で現れることの多い whole の感覚が、まるっきり育っていないことが分かる。
中学生が習うべき文法項目は、それが分かっていれば後の発展的な学習の基礎としては十分な分量を教えるわけだが、煎じ詰めれば、文法とは、形態morphologyと統辞規則syntaxの二項目に要約できる。現行の学校指導では、前者についての情報は十分ではあるが、後者の指導において、特に質的に不十分であるのではないか、というのが、最近考えていることである。
質的に、というのは、音声形式での whole の感覚を、十分に養おうとしていない、ということである。
統辞規則、つまり語順を示すには、実際に音声として時間的に展開するか、紙上に文字規則を適用して、平面的に展開するか、という、視覚・聴覚という感覚モードの種類によって、2通りの方法があり得る。ここで、実際に生徒の様子を観察して分かるのは、視覚的に展開された情報を、時間的なものの代替形式として理解する能力に、大きな差異があるということである。
語順ということに関しては、また、線条性の問題、つまり一次元的に時間軸上を進み、決して後戻りはしない、ということである。これに関しては、主に以下の二つの問題かあげられる。
一つは、この線条性、不可逆性は、純粋に物理的な音声現象のことでしかないのであって、心理的・脳生理学的には、ある程度のまとまりをバッファしておいてから、判定を下す、つまり理解する、という過程を想定しなければ、そもそも言語現象はあり得ない。
二つ目もこれに関することであるが、この不可逆性の一つの解釈として、「言葉は、聴いていった順に理解して、合計していく」という考え方が可能であるが、実際にはもっと適切と思われる解釈も可能である。つまり、単語情報が蓄積されていくことは、その後に完成する全体の、可能性を限定していくことである、とする解釈である。解放されている言語能力が、一つの具体的事例に適用されていく過程である。
ある単語を一つ、統辞上の第一番目の要素として、提示すればその時点で、可能な文の選択肢は縮まる。例えば、Do がまず最初に提示されれば、可能な主語は、1・2人称単数、複数、時制は現在、などというふうに自動的に決定され、それ以外の選択肢が排除される。以下、この過程が繰り返され、統辞的に終了のマークが示されることで、最終的な限定を終える。
この考えに基づけば、単語が持っている情報には、単純にその指示対象だけでなく、統辞的にどのような制限を持つか、ということも含まれている。当然、それによって線条的な条件の中で上記の限定操作をしていくのであれば、個々の単語についてその統辞的制限の情報を、予め知っているのでなければ、瞬間的な発話の意図の理解というのは、望むべくもないと考えられる。