読書メモ『市民社会とは何か』

市民社会とは何か?基本概念の系譜 (平凡社新書)

市民社会とは何か?基本概念の系譜 (平凡社新書)

三分の一ぐらいまで。
 はじめにこのタイトルを見たときは、「市民社会」という概念に手前勝手な定義を与えて、やりたい放題の理論構築を始める、よくある類いの書物かと思ったのだが、先日少し触れたように、「市民社会」という概念の歴史をたどることで、近現代の社会思想を読み解くという試みで、とても好感が持てるものである。議論の進め方もおもしろく、非常に誠実な考察が読んでいて清々しい。
 とても説得的なのだけど、気になった点をいくつかメモ。
 翻訳の難しいcivil sosietyの訳語であるが、著者は35ページで、

〜フッカーはおそらくブルーニ訳の の訳語として を使ったと思われる。以下では、それを「市民=国家社会」と表記して引用することにしよう。いささか煩わしい表記ではあるが、これは一つの折衷案である。OEDに従えば、同時代の英語ではそれ自体は「市民の」という意味を持ち始めており、「市民の社会」と受け取られる可能性がないとは言い切れない。しかしそのものは「国家社会」 の訳語なのであり、それ以外の用法はまだ前例がないのである。したがって、「国家=市民社会」という表記は、この二つの文脈の解説的な注記だと考えていただきたい。

と書いていて、このやり方自体はとても有効な手段だとは思うのであるが、しかし、この場合のOEDに示されているという「市民civil」という言葉に、どのような含意が込められているのかについて、今のところ全く解釈や説明がなく、それが「文明的」であることを意味するのか、それとも広辞苑になどのような「自由・平等な構成員」という意識のことをさすのか、その他諸々、全く確定ができず、折角の工夫を十分に活かし切れていない。この折衷表記が出るたびに、以降の議論の焦点が少しぼやけてしまっているように感じる。

 
 また別に気になる点は、著者によるフッカーの原文の翻訳で、政治学系翻訳の悪訳の伝統を継承してしまっているとまではいわないが、もう少し含意を崩さずに読みやすく工夫できそうな、とても読みにくい訳文になってしまっていること。
 それにしても、これまで名前とその歴史観だけ噂に聞くぐらいだったヘーゲル、たぶんほぼ初めて日本語訳を読んでみたが、これでもかというほどの悪訳で一つの引用を読むだけでものすごく時間がかかってしまったのであった。